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Who is Celine?

セリーヌのアルバムはここ30ヶ月の間に全世界で6,000万枚も売れたのだそう。言いかえると毎1.2秒につき1枚世界のどこかでセリーヌのアルバムが売れている事になる訳ですが、そんな世界で今最も注目されているアーティストの一人セリーヌ・ディオンとはどのような人なのか、ここではその軌跡を辿ってみたいと思います。


カナダが世界に誇る歌姫セリーヌ・ディオン(Celine Dion)は1968年3月30日、カナダ・ケベック州モントリオールの東30マイル(約50Km)の所にあるシャルルマーニュという小さな村で14人兄弟の末娘として生まれました。
ちなみにCelineという名前は彼女の母親がセリーヌを妊娠していたときによく歌っていたHugues Aufrayのヒット曲"Celine"から取ったそう。

非常に貧しい家庭ではあったものの、音楽と子供達をこよなく愛していたセリーヌの両親は、週末になるとよく家族一緒に音楽を演奏したり(セリーヌはピアノ)、自分たちが経営していたLe vieux Baril(古い樽)と言う名のピアノバー&レストランに子供たちを出演させたり、子供達を連れてはツアーでフォークソングを演奏していたこともあり、その影響を受けたセリーヌもわずか5歳にして早くも父親のピアノや母親のアコーディオン、もしくは兄のピアノによる演奏で当時の人気歌手Ginette Renoの歌などを披露するようになります。

そして12歳の時、セリーヌは母親に自分が将来歌手になりたい旨を告げます。娘に歌の才能を認めたセリーヌの母親は翌年彼女のために' Ce N'etait Qu'un Reve' と言う曲を作り、レコーディングされたその曲のデモテープはGinette Renoのプロデューサーであるレネ・アンジェリル(Rene Angelil)の元に送られて、セリーヌの歌に深く感動した彼は彼女のデビューアルバムを作成するために自分の家を抵当に入れるなどしてセリーヌのマネージメントに奔走し始めます。

1981年にリリースされた彼女のフランス語によるデビューアルバム"La Voix du bon Dieu"はカナダ,フランスでゴールド・ディスク(5万枚)を記録する大ヒットとなり、続く2枚目のクリスマスアルバム"Celine Dion Chante Noel"もヒットして,セリーヌの名前は"la p'tite Quebecoise(the little quebecer)"というニックネームと共にフランス語圏で広く知られようになります。

その後も1982年に東京で行われたヤマハ世界音楽祭の金賞を受賞。1984年にはモントリオール・オリンピックスタジアムにて65,000人以上の観客を前にパフォーマンスを披露、また同時期にはフランス・パリのオリンピア劇場にも史上最年少で登場、さらにケベックのレコード協会から送られるフェニックス賞も3年連続計11部門で受賞。と着々と実績を積むセリーヌのキャリアのひとつの頂点が1988年に訪れます。

その年、2400人収容のモントリオール・セイント−デニス劇場42回連続公演など大規模なツアーを軒並みソールド・アウトにし、フェニックス賞でも4部門を受賞したセリーヌはイギリス・ダブリンで行われた世界的に権威のある音楽コンテスト・ユーロビジョンコンテストでも優勝。ヨーロッパ,ソ連(当時),中東,日本,およびオーストラリアの6億のテレビ視聴者達の前でパフォーマンスを行ない、授賞式に同席したエルトン・ジョンからも"いつか曲を作ってあげよう"との絶賛の言葉を受けます。
また同年、カナダのレコード大賞とも言えるジュノー賞でもパフォーマンスを披露したセリーヌは名実共にカナダのトップシンガーとしての地位を確立するのです。

しかしながら,彼女の名が本当の意味で世界で轟くには今しばらくの時間が必要でした。そのためには英語圏、とりわけ彼女の祖国カナダの隣国であり、また世界最大の音楽マーケットであるアメリカのショウビズ界での成功がどうしても必要だったのです。

セリーヌのジュノー賞でのパフォーマンスをテレビで鑑賞していた人達の中にDavid FosterやChristopher Neilがいました。セリーヌと同じカナダ出身でプロデューサーとしても既に活躍していた彼らはセリーヌの歌の魅力に感嘆し次作のプロデュースを買って出ます。近い将来、英語で歌ってインターナショナルで活躍したいと願っていたセリーヌはDavidの勧めもあり、まずは英語をマスターをするためにベルリッツの特訓コースで2ヶ月間、毎日8時間の猛勉強を行ない英語をマスター。髪を切り、歯を直し、眉を整え、新しく生まれ変わったセリーヌはいよいよ英語アルバムの製作に入ります。
1990年にリリースされた彼女の英語によるデビューアルバム'Unison"は母国カナダで4枚のトップ10ヒット('(If there was) Any other way','Where does my heart beat now','The last to know','Unison')と共に60万枚(プラチナx6)の売上をあげ、翌年1991年にはジュノー賞を初めて(年間最優秀女性ボーカルと年間最優秀アルバムの2部門)受賞、彼女のキャリア10周年に輝かしい栄誉が付け加えられます。 またアメリカでも"Where does my heart beat now"がビルボードのシングルチャートでトップ5に入ると共にアルバムもゴールドディスク(50万枚)を達成し、インターナショナルデビューとしてはまずまずの成果を収めます。

しかしながら,彼女のアメリカでの本格的なブレイクは1992年にリリースされた次の英語アルバム"Celine Dion"と、そのアルバムから先行シングルとしてカットされた'Beauty and the Beast'によってなされます。当初、Steven Speiberg製作のアニメ映画とディスニー製作のアニメ映画『Beauty and the Beast(美女と野獣)』、2つの映画の主題歌の依頼をもらっていたセリーヌは結局後者を選択します。結果としてPeabo Brysonとのデュエットソングであった'Beauty and the Beast'は映画およびそのサウンドトラックのヒットと共に再びシングルチャートのトップ5にまで上昇、グラミー賞の最優秀楽曲賞とゴールデングロープ賞およびアカデミー賞の最優秀主題歌賞にも輝いて彼女の選択の正しさが証明されます。
このアルバムからは他にもアメリカだけでも1曲のトップ5ヒット('If You Asked Me To')と2曲のトップ40ヒット('Nothing Broken But My Heart','Love Can Move Mountains")が生まれ、アメリカでは初のプラチナセールス(100万枚)、カナダでも90万枚(プラチナx9)を売上げ、翌1993年には3年連続してジュノーの年間最優秀女性ボーカルに輝きます。

その後もセリーヌは休むことなく精力的に活動します。
アルバムのリリースと同時にMichael Boltonとの全米ツアー及びその後のワールドツアーをこなしたセリーヌは、翌1993年秋には早くも英語によるサードアルバム"The Colour of My Love"を発表。この中からはMeg Ryan、Tom Hanks主演の映画『Sleepless in Seattle(めぐり逢えたら)』の主題歌'When I Fall In Love'や'Misled','Think Twice'などがアメリカでヒットしましたが、その中でもとりわけ大きなヒットとなったのは'The Power of Love'。Jennifer Rushが1985年に発表した曲のカバーであるこの曲は1994年の頭にはビルボードのシングルチャートで4週連続1位に輝き、セリーヌにとって初めてのNo.1ヒットになります。
結果地元カナダではアルバムが初のダイアモンドセールス(100万枚)を超える売上を記録して、翌1994年には4年連続でジュノーの年間最優秀女性ボーカルを受賞。アメリカでもアルバムは300万枚(プラチナx3)以上のセールスを記録します。それだけでなくイギリスでもサードシングル'Think Twice'がテレビCMで使用された影響もあって1995年初頭に3週連続No.1。アルバムも
150万枚(プラチナx5)以上のセールスをあげ、その余勢を駆ってリリースされたフランス語アルバム"D'eux(Tne French Album)"もチャートの上位にランク。それまでフランス語のアルバムはイギリスでは売れないというジンクスをも見事に打ち砕き、15万枚(ゴールド)以上の売上を記録します。 さらにフランスではその"D'eux"が1日当たり57,000枚以上のセールスを上げ、7ヶ月後にはレコード業界始まって以来の最高を記録。それだけでなく結果として"D'eux"は全世界で最大のセールスを上げたフランス語アルバムとなります。そしてここ日本でも1995年10月にフジテレビ系ドラマ『恋人よ』の主題歌となった"To Love You More"が大ヒット。シングルはミリオンセラーを記録しヒットチャートでも洋楽としては12年振りのNo.1を獲得、翌年の日本ゴールドディスク大賞で洋楽部門のグランプリ・シングル賞を受賞してブレイクを果たします。

 そんな中セリーヌはマネージャーのレネ・アンジェリルと結婚します。
 彼女曰く、20歳の時、アイルランドのダブリンで行われたユーロビジョンコンテストが終わりホテルのそれぞれの部屋に戻る前、二人でエレベーターに乗った時からレネを意識しだしたそうで、最初のキスを今でも思い出すという。「私たちはホテルのドアの前に立ち、彼は私におやすみなさいのキスをしたの。私は体が震え始めた。とても強力で、魔法のようだった」。一方のレネは「私はその1年前から彼女に感情があった。でも、何もしなかった。彼女の人生を破滅したくなかった。私は彼女よりずっと年齢が上だ。でも、関係がうまくいったのは、彼女もまた愛していると言い張ったからだ。彼女がそう言わなかったら、私は関係をもとうとはしなかっただろう」。実際、親子程もある年の差、レネの離婚歴、ファンのやっかみ等からスキャンダルになることを恐れて,2人の交際は数年の間秘密にされます。そして2人は1994年12月17日にモントリオールの壮大なノートルダム寺院で結婚式を挙げますが、彼女のファン達はそんな二人に心からの祝福を与えたのでした。

 そして1996年春、英語による4枚目のアルバム"Falling Into You"がリリースされます。その中からはRobert RedfordとMichelle Pfeiffer主演の映画『Up Close and Personal(アンカー・ウーマン)』の主題歌'Because You Loved Me'が大ヒット。この曲はビルボードのシングルチャートで6週間No.1になっただけでなく、アダルト・コンテンポラリーチャートでも19週間トップを守り、当時の最長記録を更新します。アルバムからは他にも'It's All Coming Back To Me Now','All By Myself'もヒットし,結果として"Falling Into You"はアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアなど11カ国でNo.1になり、全世界で3000万枚以上のセールスを記録。アメリカでは1996年の年間No.1アルバムに輝き、翌年のグラミー賞では、年間最優秀アルバムと最優秀ポップアルバムの2部門を受賞します。

その同じ年の夏、彼女が世界中の注目を浴びるイベントが行われます。
7月19日にアトランタ・オリンピックで行われた開会式でセリーヌはテーマ曲"The Power Of The Dream"を披露したのです。
David Foster、BabyfaceとLinda Thompsonによって共作されたこの曲を会場にいた100,000人の観衆と35億人以上のテレビ視聴者の前で熱唱したセリーヌは後に、その時のパフォーマンスがこれまでのキャリアの中で一番印象的な出来事だったとコメントしました。

さらに10月に3枚目のライブ・アルバム"Live a Paris"をリリースしたセリーヌは翌1997年にはジュノー賞で最優秀フレンチアルバム、最優秀外国語アルバム、年間最優秀女性ボーカル、国際功労賞の4部門を受賞。これでセリーヌは合計15個の賞を受賞し、受賞数でBryan Adamsと並んで第2位になります。

セリーヌの快進撃はまだまだ止まりません。
1997年冬に発表された5枚目の英語アルバム"Let's Talk About Love"はカナダでは発売3週間で100万枚(ダイナモンドx1)のセールスを達成。アメリカでも800万枚(プラチナx8)、日本でも国内版・輸入版合わせて150万枚以上のセールスを上げ1998年度日本ゴールドディスク大賞のベスト・インターナショナル・ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーに輝く(他にベスト・インターナショナルも受賞)など半年も経たない内に世界で2500万枚を超える爆発的な売上を記録します。

もちろんこの売上には映画『Titanic(タイタニック)』の主題歌'My Heart Will Go on'の多大な貢献があった事は言うまでもありません。
映画が世界中で興行収入の歴代最高記録を塗り替えるのと同時に映画のサウンドトラックも爆発的なセールスを示し、ラジオ局もこぞって'My Heart Will Go on'を演奏。1998年の1月29日には1日だけで世界中で1億500万回以上この曲がラジオから流され、それまで持っていたDonna Lewisの'I Love you Always Forever'の記録を破って世界記録を樹立します。
結果としてこの曲は1998年度ゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞で最優秀主題歌を受賞。彼女自身アメリカン・ミュージックアウォードで最優秀女性ポップ/ロックアーティストに輝きます。
他にもこのアルバムからは、彼女の憧れの存在であるBarbra Streisandとのデュエット"Tell Him",The Bee Geesが曲作りとバックボーカルで参加している'Immortality'、フジテレビのドラマ『ギフト』に使われた'Be The Man'などがヒットしました。

そして1998年もセリーヌにとって忙しい1年になります。
まず4月にセリーヌはMariah Carey, Gloria Estefan, Aretha Franklin, and Shania Twain と共にMTV系列の音楽専門チャンネルVH1のライブに出演。この時の模様は後に"Divas Live"としてCD及びビデオとしてリリースされ、彼女はトップ女性アーティストとして地位を固めます。
そして秋にはフランス語アルバム"S'il Suffisait D'aimer"と英語によるクリスマスアルバム"These Are Special Times"を連続リリース。
中でも"These Are Special Times"はビルボードのアルバムチャートではその年発表のクリスマスアルバムとしては最高の2位まで上昇し、300万枚(プラチナx3)の売上を記録し、暮れのビルボード・ミュージックウォードでも6部門を受賞し、最高の形で1年を終える事ができました。

そして1999年。R.Kerryとのデュエット'I'm Your Angel'がビルボードのシングルチャートでNo.1、アメリカン・ミュージックアウォードでも再び2部門を受賞し、幸先良いスタートを切ったセリーヌ。グラミー賞でも最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞の主要2部門を含む4部門を受賞し、3度目の来日公演も大成功のうちに終了しました。が、同時に年末のモントリオールでのコンサートを最後に長期休養に入る決心を固めます。

デビューから今まで全速力で突っ走ってきた彼女も人の子。ましてや大家族の中で育ってきた彼女なのですから、休みも欲しいし、子供も欲しかったし、ゴルフの練習もしたかった(笑)のでしょう。

しかしながら、これも大スターの宿命なのか、休養期間も息子レネ・チャールズの出産とともにあっという間に終わってしまい、2002年春にニューアルバム"A New Day Has Come"を携えてシーンに返り咲いてきたセリーヌ。アルバムは発売2週間でオーストラリア・オーストリア・カナダ・フィンランド・フランス・イタリア・ノルウェー・英国・アメリカ合衆国など17カ国でナンバー1となり、見事なカムバックを遂げます。

そして、2003年3月からはラスベガスで3年間に及ぶ『A New Day』ショーをスタートさせます。シルク・ドゥ・ソレイユで有名な演出家Franco Dragoneによって製作されたこのショーは、歌、パフォーマンス・アート、劇場様式と最先端の科学技術とが融合した新しい形式のエンターテイメントを繰り広げています。その前後にも"One Heart""1 fille & 4 types"と英語・フランス語の両アルバムをリリース、特に後者からのファーストシングル'Tout l'or des hommes'は、カナダのナショナル・シングルチャートでフランス語シングルによる最高位を更新し、健在ぶりを示します。2004年になっても写真家Anne Geddesとのコラボレート作品"Miracle"などの意欲作をリリースしつつ、地味ながら確実な活動を続けています。
(2004.12.31)

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